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Welcoem to posts!!

in the future - u will be able to do some more stuff here,,,!! like pat catgirl- i mean um yeah... for now u can only see others's posts :c

縄文アトランティス党
Posted 1 week ago

メモ:ロシア共産党ボリシェビキ第十回大会一九二一年三月八日ー十六日:内戦後の復員兵が数百万人レベルで戦争で荒廃した国土で露頭に迷い、政情が不安定になり、あれだけ否定した販売の自由を主に農民の小経営者に許可することになる。国策としては海外からの破格に利率の良い投資や専門家の高給での雇入れを促す。

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縄文アトランティス党
Posted 1 week ago

chatgtpに聞いた、ジャック・ラカンのシェーマRにおける「a-a'」と「i-m」による四辺形が現実界を構成する意味
シェーマR(Schéma R) は、ラカンが1950年代に提唱した精神構造のモデルであり、象徴界(Symbolique)、想像界(Imaginaire)、現実界(Réel)の相互関係を視覚化したもの です。

このシェーマの中で、「a-a'(小文字の他者とその鏡像)」と「i-m(イメージと自我)」の関係によって形成される四辺形 は、ラカンが「現実界(Réel)」と定義する領域に関係しています。

1. シェーマRの基本構造
シェーマRには、4つの主要な要素 が配置されています。

a(小文字の他者, autre, objet petit a) → 欲望の対象(決して完全には得られないもの)

a'(鏡像の他者, alter ego) → 鏡像段階での「もう一人の自分」

i(イメージ, image) → 自己像(鏡像段階で獲得される理想的な自己)

m(自我, moi) → 主体が持つ自意識(エゴ)

この4つの要素が四辺形を形成し、ラカンはこの構造を現実界(Réel)の作用として捉えました。

2. 「a-a'」と「i-m」の関係とは?
この二組の関係性は、それぞれ想像界と主体の欲望に関わる問題を表している。

(1) 「a-a'」:欲望の構造
「a(objet petit a)」は、人間の欲望の中心にあるが、決して満たされることのない対象(欠如の象徴)。

「a'(alter ego, 鏡像の他者)」は、主体が自己を認識する際に「他者の視点」を通じて形成する自己像(ex. 鏡像段階の認識)。

つまり、「a'(他者の像)」は、「a(欠如としての欲望)」と連動して主体の経験を規定する。

主体は「自分が他者にどう見られているか」という想像的な枠組みを通じて、「a」を求め続ける。

➡ 「欲望の循環」:人間は「他者の視線」によって欲望を形成するが、それは常に未完成であり、決して完全には得られない。

(2) 「i-m」:自己認識のズレ
「i(image)」 は、「鏡像段階」で形成された理想的な自己像。

「m(moi, 自我)」 は、主体が社会や象徴秩序の中で持つエゴ(自己の意識)。

しかし、「i」と「m」は常にズレがあり、完全には一致しない。

主体は「i(理想の自己)」を追い求めるが、現実の「m(自我)」はその理想に到達できない。

➡ 「ナルシシズムの構造」:自我(m)は理想的自己(i)を求めるが、それは常に幻想にすぎず、不完全なものである。

3. では、なぜ「a-a'」と「i-m」の四辺形が現実界(Réel)を構成するのか?
ラカンにおいて「現実界(Réel)」とは、象徴界にも想像界にも適切に組み込まれないもの を指します。つまり、言葉で完全に説明できず、主体が決して直接アクセスできない領域 です。

「a-a'」と「i-m」の組み合わせが現実界を構成する理由は、以下のように整理できます。

「a-a'」の関係が示すのは、主体の欲望が他者の視線を通じて形成されるが、決して完全には充足されないこと。

欲望は他者の視線により駆動されるが、それは常にズレを含む。

つまり、「私は他者が望むものを欲望する」というラカンのテーゼに対応する。

「i-m」の関係が示すのは、自我(moi)が理想の自己像(i)を追い求めるが、これもまた幻想に過ぎず、常に不安定であること。

自我は想像界(イマジネール)に基づいて構築されるが、それは現実の主体を完全に表現するものではない。

この四辺形は、欲望と自己認識の「ズレ」を表しており、それこそがラカンの言う「現実界(Réel)」の本質に関わる。

欲望は常にズレを持つ(a ≠ a')、自我もまた理想の自己像とズレる(i ≠ m)。

この「ズレ」は埋めることができないものであり、まさに**「現実界(Réel)」の不可能性** を示している。

➡ つまり、シェーマRの四辺形が示すのは、「主体が決して到達できない、しかしそれによって駆動される現実界の構造」なのです。

4. まとめ
✅ 「a-a'」は欲望の関係を、「i-m」は自我の構造を示し、どちらもズレを含んでいる。
✅ このズレこそが「現実界(Réel)」を生み出し、主体はそれに決して直接アクセスできない。
✅ 主体は「想像界(i, a')」を通じて自己を認識し、象徴界を通じて社会に適応するが、それでも「現実界(Réel)」の裂け目は埋まらない。
✅ したがって、シェーマRの四辺形は、主体の欲望と自己認識の根本的な不安定性を示し、それが「現実界」として機能している。

ラカンにとって、「現実界」とは決して象徴界に組み込むことができない「不可能なもの」 であり、シェーマRの四辺形はそのダイナミクスを示すものなのです。

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縄文アトランティス党
Posted 4 weeks ago

レーニン全集30巻あたりで革命後二年で体制が固まりつつあるところで内外に対する激励、扇動の報告が増えてくる。そこで読んでいる側としては中だるみの感がしてくるのでなるべくネタバレを防ぎ臨場感を出すために各巻の内容をあらかじめ追ってなかったのだが、あえてみてみると35巻でいったん終わり、別巻索引が2巻それに付け加えられた巻が10巻あって全45巻+別巻2。43、44、45は手紙。36、37、38はノート。39、40、41、42あたりが付け加えられた論文、演説。そして34、35も手紙なので、いったん33巻までで終わり、以後付加された文章が39、40、41、42なので主には全部で37巻が主たる流れになる。後に出された第五版も付け加えられた多くは手紙のように思われる。

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縄文アトランティス党
Posted 1 month ago

~を読め」という言葉を時折見るが、~を全部読まなければ読んだことにならないではないか。~を読めという人は~を読めという言葉をそのままよんでいるだけなのだろう。

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縄文アトランティス党
Posted 1 month ago

人類の未来に待ち受ける未知の「穴」が、100年以上前のロシア革命の穴と関係あるかと問えばあるに決まっていると答えるだろう。それは途中までは確からしく思われるところのある共産党の言動があるところで結局何を目指しているかわからないように見えることと相似している印象を与える。それとは別に一々現実に対応させずに相似が浮かび上がるまで遡及するにはどれだけ時間が残されているのかという疑念がある。人は歴史には色々あり、そのどれをとるかは機能的な役割分担だというだろう。しかしその分担自体現在のものでしかなく現在の過去への安易な投影、捻じ曲げではないのか。優先権の主張が必要なのである。

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縄文アトランティス党
Posted 1 month ago

脳が擦り切れてきたのか読む量にセーブがかかり、空いた時間に過去を振り返ってみる。23年12月に以下の未邦訳部分の機械翻訳を載せた。https://youtu.be/ukxzt_EKmu8 そしてホイルの定常宇宙論近辺とダーウィン『種の起源』を読んでいたわけだが、その前にカントやヘーゲルを読み通していたからだろうが生命における無限の問題が主なテーマになってこの一年過ぎたような気がする。それ以外にウクライナやパレスチナの外在的な世界史的事件も影響しているのだが、もともと一冊50円で高円寺で入手したレーニン全集を十年ぐらい寝かしてあり、理論の問題としてマルクスに遡ることも含めた近代社会の知識と行動についての全般的な捉え直しとして考えるべきだというのが、フロイトも含めての今のところの感想だ。

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縄文アトランティス党
Posted 1 month ago

生活をぬきにし、政治をぬきにした学校というのは、偽りであり、偽善である、とわれわれは公然と声明する(レーニン『教育活動第一回全ロシア大会での演説』)このレーニンの言葉は一見、教育の中立性に対する逸脱に読めるが、ピエール・ブルデューの教育社会学における「文化資本」の議論に見られるように、教育が階級格差を再生産しているだけだという視点からすると、教育制度の現実を直視しているだけだと言える。

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縄文アトランティス党
Posted 1 month ago

パレスチナの問題により西欧は時計の針を巻き戻してしまった。ゆえにこちらも近代を越える運動であったマルクス主義に遡るほかはない。

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縄文アトランティス党
Posted 1 month ago

レーニンの手法だと、正しいかどうかはやってみればわかるである。記述の客観性は机上の議論として棚上げされる。これは、一つの政治のやり方である。著作が日本でも出版され文庫化されたりしているが、それらは行きがかりの論戦の産物であり、手段である。思えばマルクスも政治家であり、すべては政治的産物ではないのか。しかるがゆえの覇権主義であり、自己正当化ではないのか。そこでは思想も学問も手段なのである。

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縄文アトランティス党
Posted 1 month ago

小ブルジョア・インテリゲンチャ等という言葉はソ連崩壊後のこんにち一般的に機能しないように思われるが、アカデミズムがアカデミズムであることによる下部構造上部決定論的に機能不全をおこしているように見えることは多々ある。

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